とんでもないことが起きていた気がして

五十嵐です


週に一回くらい(多分毎度違う事柄の)重大な何かを忘れているような感覚に陥る。それは自分や他人を巻き込んで取り返しのつかないレベルにまで膨らんだ事象で、例えば極悪犯罪に巻き込まれたとか、誰かが死んだ、殺してしまった、大戦や自然災害が起きた、超重要な物(書類)を壊した、失くした、締切を守れなかったの様な普通に生きていれば忘れるわけのない事象である。
そしてその事象を調べるとこんなYahoo!知恵袋の質問が出てくる。

「ずっと何か忘れてるような気がしてモヤモヤします。
他のことをしてても、不安になって考えてしまいます」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13166692798?fr=and_tw
これだよ。まさしくこれ。
回答にあるFOKやTOT、メタ記憶に関してはあぁそうなんですかって感じだけど納得はできる。他に調べると強迫観念とか高次脳機能障害とか書かれているけど、それによってストレスを感じてるわけでもないし、脳卒中の症状もないので関係はないと思う。

これ以上は入院患者の日記みたいになるから書かないけど、これはきっと寝て見る夢と現実の区別がつかなくなってきている証拠なんだと思ってる。
なにか原因がわかる人は反応してくれれば嬉しいです。

すごく真っ暗い中でのこわい走り

虎崎

ゴールデンウィーク。直訳すると「金の週」。なんと安直なネーミングであろうか。いや、だからこそというか、命名当時に思いを馳せると、休日というものは金にも匹敵するとても大切な存在なのだという社会人達の思いがひしひしと伝わってくる。もちろんその思いは今も変わってはいないのだろうが、ゴールデンウィークに仕事を休むという人間のほうが少ないように感じる。(一同大爆笑)大学生においてもそれは同じだ。ゴールデンウィークで休みが取れたのでバイトを多く入れたり、日雇いで終日働いたりと、それ普段よりもきついんじゃないの?と言いたくなるようなハードなスケジュールを皆がこなしている。(一同大爆笑)今、皆という言葉を使ったが、これは何も全員というわけではないと注釈しておこう。かくいう私自身もバイトはしていないし、ゴールデンウィークが始まってから3日たち、何も生産的な活動をすることがないまま、ブロッコリーを食べ、事実上からかさになっている。

もともと書きたかったことから話がだいぶそれでしまった。ここからが長いので覚悟してほしい。三日前、つまりゴールデンウィーク最初の日の夜、私は案の定かなり時間を持て余してしまっていた。当たり前だ。普段帰宅後に行っていることをすべて日中にこなしてしまい、家の周りには娯楽施設なんて上等なものはない。いかにして時間を消費するべきかという脳内の討議に「ランニング」という結論が出たのは、時計の針が10時を周り、一人ぼっちの自室がすっかり暗くなってからのことだった。決まってからはかなり早かったと思う。こうして私は、バイト先の候補として考えていた大型商業施設までの片道徒歩50分ほどの道のりを、暇に任せて走り出したのだ。越してきて間もない私にとって、5分も走ればそこは未知の領域である。行く先を照らす街灯なんかも充足しているとは言えない。私が頼れるのは手に収まるほどの薄っぺらい板の中の更に小さな情報の集積、グーグルマップただ一つである。画面右上に表示された15%というなんとも頼りない数字が私の不安を煽り、耳元でがなりたてるエミネムに急かされるように私の歩調は少しずつ強まっていく。気づけば十数分が経っていた。マップで確認すると路の半ばくらいまでは来ていた。体力はまだ残っている。月明かりが辺りを辛うじて照らしてくれてはいるが、その中にぼんやりと浮かび上がる古びた住宅街の中を走るというのはなんとも不気味なものである。この街は景観保存都市に指定されていて、都市自体が戦火を免れたということもあり、歴史的な建築物が数多く立ち並んでいる。だからこそというか、満足な舗装が為されていない細道は何度も枝分かれして入り組み、とても真夜中のランニングに適しているとは言えなかった。同じような建物が並ぶこういう道を通っていると、見たくもない細部に目を奪われてしまう。廃屋の割れた窓ガラスのその奥、側溝の底の見えない暗闇、極めつけは頻繁に姿を見せる小さな寺や祠である。神への畏れの根本は恐れであるという。天災等の不幸への恐れが畏敬の念へとつながったのだ。私はこういう話が好きなので話そうと思えばだいぶ話せるがそれはまた別の機会に回そう。話を戻すと、要はめちゃくちゃ怖いのだ。だが引き返すという選択肢は私の中には無かった。できる限り目を伏せ、全力で駆け抜ける。それが、私がその時取れた最善策であった。ようやく住宅街を抜けると目の前に広々とした開放的な空間が広がる。田園地帯に入ったのだ。ここを抜ければ到着だ、もう少しでつくのだと自分に言い聞かせ、また少しスピードを上げていく。恐怖は依然として背中に張り付いている。田に目を移すとくねくねが居そうな気がしたので、ただ足元だけを見ながら半ば全力疾走していた。やっとの思いで田園地帯を抜け、目的地が見えてくる。遂に到着だ。私の心中は達成感よりも絶望で満たされていた。走る気力はあったが帰り道を抜けられるほどの精神力は残っていなかった。10分ほどゆっくり休憩をとり、嫌嫌帰路につく。ここからは割愛しようと思う。なぜなら帰り道のほうが怖かったからだ。これは行きの倍以上になってしまいそうだ。当初想定していたよりもだいぶ長引いてしまった。箇条書きで許してほしい。

・電柱の根本にそっと置かれた行きは無かったはずの花束×2

・田園の中にぽつんと建てられた行きは無かったはずの墓地

・道の真ん中に置かれたマックのジュース

・嘘の道を教え始めるグーグルマップ

・そして袋小路

・止まる音楽

・なくなる充電

以上。思い出したくもない。次はもっと短くするからこれでとりあえず許してください。

長谷川です。

今日は雨が降りました。久しぶりな気がします。実際どうだったか調べるなどの事はしていません。

雨は出場させてもらえる気がしない試合と面倒な練習を潰してくれたのでとても好きでした。教室の窓から水溜りが出来たグラウンドを見て嬉しい気持ちになっていたのを、雨が降れば思い出します。平日は雨なら中練習に切り替わり廊下を走ったり筋トレをしたりのメニューでしたが、体力だけは自信があったのでまだマシでした。それに中練習になると普段より早く終わったので良かったです。

 

山盛りのクソ

はじめまして、虎崎です。

英語の慣用句に"showerthoughts"(シャワーソウツ)というものがあります。入浴や通学などの毎日のルーティーンをこなしていく中で、ぼんやりと頭に浮かぶあれです。今日のハイライトだったり、明日の予定だったり、エロい妄想だったりもしますよね。初回にふさわしい内容かどうかは置いておいて、今回は私自身のシャワーソウツについてお話しします。

春に進学で実家を離れてから、もう少しで一ヶ月が経ちます。帰宅してから次の日家を出るまで、私は主にずっと一人です。一人だからこそできること、誰とも関わらない時間が長いからこそできること、それが、シャワーソウツというわけです。今、"できる"という表現を使いましたが、正確にはそれは自分の意思に関係なく頭の中に浮かんできます。たとえそれが過去の嫌な思い出や失敗など、自身に強いストレスを与えるような内容であっても、脳は構わず私に思考を強いるのです。ただこれにはひとつ対策があります。私はこれを使ってなんとか自分自身に抗っています。まず、頭の中に小さな自分を二人登場させます、彼らは一つのトピックに対して真逆の意見を持っていて、それが私にとって本来興味のないトピックであっても正反対の二つの意見をむりやり私の中に存在させるわけです。そしてその後は私が交互に彼らの位置に立って各々の主張を展開します。要は自分自身と延々ディベートを行っているわけです。例えば、私は人体実験には強く反対していますが、同時にそれを同じくらい強く肯定する人格も存在しているということです。二人は全く互角に主張を戦わせます。私が本来反対派であるからこそ、議論の安定性を保つため賛成派には強く力を入れます。そして決着がつかないまま次のトピックへと移るのです。これを繰り返すうちに作業はいつの間にか終了しています。すごく非生産的ことをやっているのは重々承知の上ではありますが、やはりというか生産的なのではないか派も頭の中には存在してしまっています。

オチがない文章の最後に、この文章にはオチがないというセルフツッコミを入れて強引に終わらせるのってちょっとイタくないですか?そんなこともないか。以上です。

拙い文章で恐縮ですが次はもっと拙くなるので覚悟のほどよろしくお願いします。ありがとうございました。